90年代後半、東京の夜には特有の匂いがあった。排気ガスとアスファルトの熱、そしてどこからか漂うブラックミュージックの芳香。そのシーンにはDJ HASEBEとSugar Soulによる『いとしさの中で』があった。
この曲を聴くとき、私たちは単に音楽を消費しているのではない。あの湿度を、あの風を、そしてあの頃の誰かの横顔を追体験しているのだ。
目次
深夜の国道246の夜風に溶けたビート
二十歳の頃、火曜日の深夜の国道246号線を渋谷へとひた走る、一台の車があった。カーオーディオから流れてきたのは、DJ HASEBEのメロウなビート。彼女が好きだった曲だ。
助手席に座る4つ年上のB-girl。タイトなショート丈トップスから細いウエストを覗かす。窓から吹き込む夜風が彼女の艶やかな黒いストレートのロングヘアを乱し、髪の隙間から時折のぞく耳元の大きなゴールドフープピアスが対向車のハイビームに反射して鋭く艶やかに輝く。
あの瞬間、世界はこの曲を中心に回っていた。若さゆえの背伸びと、得体の知れない期待感。Sugar SoulのAicoが歌う「いとしさ」は、まさにその夜の空気そのものだった。
90年代R&Bの夜明け:渋谷HARLEMと「HONEY DIP」の熱狂
1990年代後半、日本のブラックミュージックは劇的な変貌を遂げた。1996年の「さんピンCAMP」が種を撒き、その後に芽吹いたのが「日本語R&B」という名の巨大な華だ。
震源地は、渋谷円山町のクラブ「HARLEM」。そして、DJ HASEBEがレジデントを務めた伝説的パーティー「HONEY DIP」である。毎週火曜日の夜、そこではUSの最新R&Bと、日本のクリエイターによる挑戦的な楽曲が、分け隔てなくフロアを揺らしていた。
DJ HASEBEは、ヒップホップの骨格を保ちつつ、女性シンガーの官能性を引き出す天才だった。彼がSugar Soulと組んだとき、単なる「日本語のR&B」ではない、渋谷という都市独自のソウルミュージックが誕生した。
DJ HASEBEという美学:都会の孤独を包むビートメイク
DJ HASEBE(OLD NICK)の作る音には、特有の「湿り気」がある。それは、雨上がりのアスファルトのような、あるいは高層ビルの谷間から吹き抜ける強風に煽られた木々の騒めきのような、都会的な情緒だ。
彼のビートは、ただ踊らせるためだけにあるのではない。一人で車を走らせているとき、あるいは誰かとチルする時間、さらには甘い夜に包まれる中で、完璧なサウンドトラックとして機能する。
『いとしさの中で』におけるドラムの鳴りは、今聴いても圧倒的に太く、タイトだ。その重低音が、Sugar Soulのハスキーで艶やかなボーカルを優しく包み込む。この「強さと脆さ」の共存こそが、HASEBEマジックの真髄である。
サンプリングの魔法:Anita Baker『Mystery』の再構築
本作の核となっているのは、見事なサンプリング・ワークだ。その元ネタは、R&Bの女王Anita Baker(アニタ・ベイカー)が1986年に発表した名曲『Mystery』。
- 元ネタの静謐さ: アニタ・ベイカーが持つ、深遠でジャジーな「静」の世界観。
- HASEBE流の再解釈: その神秘的なメロディを抽出し、90年代流のストリート・グルーヴへと接続した。
この『Mystery』という選曲センスが素晴らしい。洗練された大人の哀愁を、若者たちの夜のアンセムへと昇華させたのだ。このサンプリングこそが、曲に奥行きを与え、四半世紀経っても色褪せない「気品」を担保している。
Anita Baker – Mystery
YouTubeに集う記憶:かつてのキッズたちが語る「あの頃」
YouTubeのコメント欄は、さながら「記憶の墓標」だ。そこには、かつてのBボーイ、Bガールたちが、この曲に託した思い出を書き連ねている。
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「深夜のドライブ、この曲をかけてカノジョを家まで送った思い出が蘇る」
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「カセットテープに録音して、伸びるまで聴いた。あの頃の渋谷が一番輝いていた」
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「今のR&Bもいいけれど、この時代の『熱量』と『色気』は別格だ」
コメント欄を読むと、この曲がいかに多くの人生の「分岐点」に立ち会ってきたかがわかる。20代の若者たちからは「エモすぎる」「チルい」と評され、世代を超えた普遍的な名曲として再定義されている。
【Review】『いとしさの中で』の普遍性
『いとしさの中で』を評するなら、それは「日本のR&Bが、USの模倣を完全に脱ぎ捨てた記念碑」である。
1999年前後のR&Bブームにおいて、多くの楽曲が消費されて消えていった。しかし、この曲だけは違う。この曲が古びない理由は、トレンドではなく、「普遍的なメロウネス」を追求したからだ。
DJ HASEBEのビートには、現場の空気を知り尽くした者だけが込めることのできる「説得力」がある。スピーカーから響く低域の迫力は、当時のエンジニアリングの極致と言える。
特にAicoの歌声は、テクニックを超えた「情念」をはらんでいる。サビで繰り返されるメロディは、どこまでも切なく、しかし聴き終えた後には不思議な浄化作用をもたらす。
それは、90年代という時代の残像。重厚なイントロが流れた瞬間、再びあの日の匂いを呼び覚ますはずだから。
引用元
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YouTube 各公式・ファン動画コメント欄より抜粋・要約